「宗教と政治」の問題にどう向き合えばいいのか

最近、「宗教と政治」という、大変難しい問題について考えている。そもそも、宗教も、政治もそれぞれ実に難しく、しかも、安易には回答が見つからない難題だが、その両方を総括的に考えることは、その難しさ×難しさとでもいうべき、超難題であることは言うまでもない。それでも、昔から時々思い出したようにこの問題に取り組んでみたくなる。

 

だが、少なくとも今までは、いくら考えても「宗教と政治は分離しておくほうが無難」というようなそれこそステレオタイプな結論に至ってしまうので、第一ブログ(風観羽)でも、(少なくとも表立っては)取り扱っていない。だが、2000年代の半ばくらいから、哲学者のユルゲン・ハーバーマスが繰り返し述べているように、近代化が進むとともに、宗教は消えてしまうどころか、むしろ益々繁栄しているように見える。自分自身語るべきことは沢山ある気はしている。

 

日本では、いわゆる「宗教嫌い」が多いが、一方で死後の世界も、生まれ変わりも、当然あると平然と答える人もまた非常に多くなっている。また、自民党の現政権は、宗教色が非常に強い「日本会議」のような団体との関係をことさらに隠蔽することもなく、むしろ伝統的な日本精神として称揚している。その中心にいる安倍首相の奥方である、昭恵夫人にいたっては、若年女性に多い、いわゆる「スピリチュアル系」であり、しかもそれを隠そうともしていない。いずれも、一昔前であれば考えられなかった姿勢だろう。

 

特に日本の場合、組織化された宗教を嫌いながらも、形になりにくい「宗教心」が出口を求めて彷徨しているのは明らかだ。これを過度にタブー視していると、「宗教心」の持って行き場のなくなった人達が、とんでもない邪教としか考えられないような団体や教祖に翻弄されてしまうのではないかと心配になってしまう(その事例はいやになるほどある)。そういう意味では、正当な議論が表立って行われるような環境こそ望ましいように思えてならない。

 

日本人の、特に知識人に、宗教を嫌い、タブー視する人が多いのは無理からぬところもある。一種の「科学信仰」は、近代の知識人の共通の信念でもあるし、日本の近代~現代でも、日本人に宗教嫌いを促すような不幸な歴史が相次いだ。戦前にさかのぼると、国家神道が戦争を正当化する扇動役を果たしたのは言うまでもないが、仏教系の団体(日蓮宗系、浄土真宗系等)もその中から、田中智学や井上日昭のようなカリスマ性のあるリーダーが現れ、昭和のテロリズムや、アジアの帝国主義的な支配を正当化するイデオロギー形成に一役買うことになった。近くは、「仏教徒」を自称していたオウム真理教のテロなども記憶に新しい。

 

日本人のマインドは、戦後は、経済一色となり、特に学生運動が霧散した後は、宗教はおろか、政治問題でさえ忘れ、語らないことが「美徳」とさえする空気が支配した。実際、経済に専心した結果、戦前の宗教の暴走の一因となった貧困問題はほぼ解消した。だが、一朝、この安定が崩れ、社会の不安感が強くなるような事態となれば、おそらく一旦は死んでしまったかのように見える「亡霊」が決して死んではいないことに気づくことになるだろう。昨今、その環境がどんどん整いつつあるように私には思える。心配し過ぎと嘲笑される向きは、是非、昭和初期の宗教に関わる歴史を研究してみて欲しい。

 

断っておくが、私自身は、人間にとって宗教心を持つことは非常に大事で、しかもそれは一生を通じて涵養されるべきものと考えている。その意味では、仏教史にも多くの教説にも興味を持ってそれなりに勉強もしてきた。そのことと、宗教が、しばし、テロや戦争のイデオロギーとなってしまう悲しむべき歴史があることは別だし、それがどういうことなのか、もっと深く知る必要があると考える者だ。

 

困ったことに、大事なのだが、どうやって話を持ち出せば、誤解に満ちた熱狂に巻き込まれずに、問題の核心をきちんと議論できるのか、今の私にはその智慧もなく、確信もない。よって、もう少し自分の研鑽を深めてから意見の表明を始めようと画策しているところだ(でも時間がかかりそうだ・・)。